あいまいまいんの生物学

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今「学問」に対して思うこと、そして反省

最近また自分が過去の時間に学んでこなかったことに対して失望した。

というかそんなことばっかりなんだけど…

もっと深く勉強しといたらよかったな、

もっと幅広く勉強しておけばよかったな、

もっと人生の早い内からこれを知っておけばよかったな、

こんなことばかり思う私である。

 

そんな私は例えば高校生や大学生の時代まで逆上って勉強をし直したい、もっと沢山勉強をしたい、なんて思ったりするんだけど

実際の高校生や大学生と対峙すると「学問に取り組む意義が分からない」とか「学ぶ意欲がわかない」とか、

「自分は学問に向いてないんじゃないか」ということを聞いたりする。

そりゃ人間多様なので向き不向きもあるんだろうし、向いてるな向いてないなみたいなことは思うだろう。

意義がわからんとか意欲がないとか、実際そういう気持ちになるのも人間だものあるんだろう。

だけど私としては、そういう風に思うことがあったとしても、やっぱり学問は人間に最後必要なものなのではないかなと思うので、個人的には誰しも最後は学問にもう一度向き直って欲しいなと思う。

特に大学なんかは、最も学問に近づける場所だと私は思っていて、

膨大な本、専門にしている教授陣、研究室に所属する人々、様々な催し、自分の周りの人間etc…純粋に学問に興味があり、学問の情報が最も集めやすい環境だと思うので、大学に在籍しているのにそれらの価値を微塵も感じないまま出てきてしまうのはちょっと惜しいのではないかと感じたりする。

今日は、今の後悔ばかりの私が、あの時勉強を自分なりに精一杯したと思ったはずなのに、なぜあの時勉強できなかったことが確実にあって、なぜ今勉強が必要だと思うのかを鑑みながら、つらつら言葉にしていきたいと思う。

 

 

大学に行って学問が好きじゃないと思った、という人は、おそらく大半が「快感」のトリガーに起因するのではないかと思っている。

高校までは、「分かる」快感や「知識を得る」快感よりも、承認欲求による快感の方が大きんじゃないかと思うから。

快感は正解や高得点を出せること由来であり、

勉強は誰かに認められるための手段。

こういうことを基軸に勉強に邁進してきた人間は、大学に来ると「実は自分は『学問』そのものに興味がないんじゃないか」と思うんではないかと解釈する。

大学はあまり評価される瞬間が来ない。

評価されたとしてもそれが公になるほど素晴らしいのはごく一握りだ。

そして大学は自分以上が絶対沢山いる。自分が埋もれていく感覚がある。

何の飛び抜けたものもない(と自分で思っている時、)自分は、学問にも大学にも歓迎されていないように感じるのかもしれない。

なにか評価されることに向き直りたい気持ちになるのかもしれない。

 

でも「学問に歓迎されていないんじゃないか」とか、「自分は本当は何に快感があって何に興味があるのか」とか、そういうことを見つめ直すこと自体は実はとても有意義なのではないかと思う。

何も考えず学問し続けられる人もとても強いんだけど…それは後で話す。

 

 

大抵、人は学ぶ力自体は持っているんだと思う。

学ぶという行為は、対象はなんでもよくて、

興味があることを突き詰めて近づいてみることだから、これは誰しも割とできる。

学ぶ対象が高尚に見えるとか見えないとか、あるかもしれないけど、どんな対象だって「学ぶ」ことでしか知は得られない。自分をアップさせられない。

「学ぶ」は自分の楽しさになるから、学びたい対象が見つかったらとことん学んでみればいいと個人的には思う。

他人と比較し始めたり上すぎる人を見続けると学ぶことが苦しくなる。

学ぶは基本自分との対峙なんだと思う。

学ぶは着実に自分の足りないものや今の自分が得たいものを得る行為だ。

そして同時に学ぶは「自分の意識が向いているものにしか発生しない」。

そして絶対自分なりの独自の学びには限界がくる。

何かに道が妨げられて、「これ以上に行くには別のやりようが必要なのではないか」と確かに感じ始める。

雑な例だが、料理なんかもそうだろう。

美味しいものが作りたい、と思う。適当にやってみる。段々方法論が経験などから得られてくる。ネットで情報を探して知識がつく。でもあと一歩が進めない所まで来る。

そしたらどうする?

そしたら…学問に足を突っ込むのだ。

食材に熱を通すベストな時間は計算できる。

生物を構成する物質を知っているとその物質の扱いが分かる。

 

 

そんな風に、一度自分なりの学びに走ったとしても、最後は学問がくるのだと思う。

学問は体系化された知だ。

学問の世界に足を踏み入れると、最初それらが何に繋がってるのか、

何に活用できるのかさっぱり分からないことが多い。

まるで狂ったように好きな人が築いてきた一本道にも見えるし、

既に築かれきったものにも見える。

でも学問を学ぶ対象として取り入れてみると、それは知識の体系でもあると同時に考え方の摂取であることにも気づく。

そして知識も考え方も最後巡り巡って自分を助ける。

どこかで自分が学んでいたことに繋がってくるし助けてくれる。

それはきっと思いもよらない形で起こる。

なぜなら学ぶ者は最初から全てが見えているわけではないから。

学んでマイニングして初めて分かるようにしかならない。

だから学問にはなるべく盲目な状態で取り組まねばならない。

なんの価値があるんだろうなんて考えないで目の前のものを一度取り込んでみる。

興味があるものが見つかるかも?

自分が見つかるかも?

とってもかんたんな解決法がそこに転がってるかも?

自分を楽にする考え方がそこにあるかも?

人生の転機でその知識が役に立つかも?

その知識のおかげで誰かと繋がってチャンスが来るかも?

…それらは見込めるけれど、最初から期待して学問にかかると見返りが中々こないからやめたほうがいい。無で学問をする方がよい。

 

 

学問は最後武器になる。これだけは絶対に言える。

学問をしておくと、しかもその摂取した分野が幅広いと、本当に役に立つ。

何かを理解する時にも…

何かを解決する時にも…

誰かと言葉を交わし関係を築くのにも…

学問して身につけたものは簡単に表には出てこないかもしれない、評価もされないかもしれない、

でも「ある瞬間に絶対に学問した側が勝つ時」が来るのだ。

学問は投資か、予防接種か、うまくいえないけど、血肉だなと思う。

身体を鍛えている人が荷物を運ぶ局面で役に立つのと同じで、

学問の力が発揮される場面は絶対にある。

そして身体を鍛えている人は実際には普段の生活の質や病気への抵抗性などもあるわけだが、

学問も同じく自分の日常のレベルを一段階知らないうちに上げてくれているものなんだと思う。

 

だから最初から何も考えず学問に没頭できる人はとても強い。自分の学びに一度行って、学問に再度たどり着くまでロスしている人よりよっぽど学問との対峙時間が長い分強い。知らないうちに恩恵も全部手に入れて、それが当然だと思いながら使っているだろう。

でも一度自分の学びに行った人も最後学問に帰ってこれればそれでいい。大学や高校で学問を供給してもらえた素晴らしい時間を損失したことを悔いたとしても、自分は今大事さを分かっているわけだから、その「大事さ」を知るために必要な投資だったのだと諦めるしかない。そしてしっかり学問に向き合えばいい。と思う。

 

 

自分も本当に沢山の思いもよらない場所で学問に助けてもらった。

旦那さんと結婚できたのも、学問のおかげだと実は思っている。

相手の話すことが分かったから、言葉が交わせて交際できたのだと思ったり…。

自分が学問によってどこで活きるのかわからんなと言いつつ得た知識のおかげで多くの本が読めて、新たな知を得られた経験もある。

知は知を拓くための鍵なのかもしれない、と感動するほどだ。

 

 

最初にも言ったように、自分は今後悔をしている。

なぜあの時勉強できなかったことが確実にあったのか。大学で勉強できていれば、もっと楽に学問が得られたろうに、とか、ここまでの人生でもっと違う扉を開けただろうに、とか。

自分は生物学に没頭しすぎたというのと、一見関係なさそうな学問の重要性を最初から認知できていなかったというのが敗因だと思う。

生物学を掘って、必要だなと思った学問ばかり摂取していくスタイルが駄目だったのだ。

とはいえいまさら言ってもしょうがないので、この後悔が誰かのためになればと思いここに記すだけにして、あとは今から少しずつ、自分のキャパシティ内でできる学問を進めていきたいと思っている。分野を絞らず、色んなことを吸収していこうと思う。

 

 

かなりまとまりのない文章だけど、独り言だと思って赦して欲しい。

 

では。