「子どもは何ができるようになるか」
先日、理科教育研究会の研究大会に参加してきました。
色んな先生の各地での取り組みの具体例を聞くことで、自分にフィードバックする良い機会です。
そのまま受け止めてアイディアを活用しよう、というものもあれば、
反面教師にしたり、我が身を振り返ったりするというきっかけに使えるものもあります。
どんな発表も価値あるもので、非常に考えさせられる良い機会でした。
特に今回の発表はほぼほぼ「主体的な学び」というものがメインで
「主体的に実験させる」という発表項目に収束してきている印象を受けました。
主体的な学びって難しい。言うのは簡単だけど。
例えば主体的に学ぶべきだから、実験のやり方を自分で考えてやってみなさい、自由にしてみなさい、というのは、それはちょっと違うなぁという気がします。
本当にそれで主体性が育つか?自分が求めている能力が得られたり
生徒に望む気づきの良い機会として提供されるか?ということを考えると、どうかなぁなんて。
結局手放しの「自由」は、アクティビティの時でもそうですが、
単位時間あたりに得られる学びも希薄になるし、
そもそも期待する学びに到達しない可能性が高いんですよね。
生徒も不完全燃焼感が多いし、何より自由に!と言われた時点で
何に頼ってよいのか?どこまで使ってよいのか?なんて、足がすくんでしまってだめなのではないかと思います。
何を期待されているのか、どういう所にたどり着くように今自分たちの力をもってして何をすれば良いのか、という指針はちゃんと与えてあげるべきだと思います。それが授業づくりというものだとも思うし…
これもこれで、言うのは簡単で実行するのは難しい。
何より実際やってみると考えていることでは全くカバーしきれていないパターンがあることに気付かされることばかりです。
かといって「じゃあ失敗を臆さず何度も試行して全パターンを把握できるようにすればいいんだよ」なんて言う人もいますが、
その時の生徒にとっては人生で一回限りの学びの場であるわけで、それを軽々しく「失敗してもいいや~」なんて気持ちでやっていいのか?という議論もある。
結局やってみなければ分からないし良いものにするまでには必ず叩き台があり、
教師が最初から最善の授業ができるわけではないので試行しようがしまいが生徒は犠牲になってしまう面がある、と私は思う。
だからこそ我々ができることは今の最善努力であり、それを尽くす他になく、
そして一日でも早く生徒が犠牲にならない「良い授業」なるものができるようにやっていくしかない…のだろう。
横道に反れてしまいました。
さて、その研究発表において、
学習指導要領改訂を受けて今後の理科教育を考えようという要旨の講演がありました。
この前大学入学共通テストについても新たなプレテストが公表されたばかりですね。
簡単に言うと、
今までの教育は「教師が何を教えるか」という内容重視の教育であった。
教科書中心で「〇〇を教えなきゃいけない」「□□という知識をつけなきゃいけない」みたいな。子どもはその教えられたことを学ぶ、というスタイル。
だけども新しい教育は、「私の授業を受けたら『子どもは何ができるようになるか』」を第一に考える。
今後の社会がどうあっても生き抜ける力やら術やらを育てるために、逆にそのためにこの授業を通してどういうことが可能にできるかなっていうのを考えながらやっていかなきゃいけないんだそうで。
なるほどねーと思う反面、実用重視感がちょっと強いなぁという気持ちにもなる。
個人的に、かつて自分が授業を受けていた時は
なんだか「無駄こそ愛せよ、その中に大事なものを見出だせる」みたいな気持ちの方が大きかったなぁという思い出がある。
色んな知識をかき集め、それがなんの役に立つのかはよくわからないままに「面白いね~」と言いながらひたすら集めて…
で、その知識が集大成になってきたころに手元で大きな音を立てながら化学反応して繋がっていく様に感動したものである。
「ここの理論がこの学問・現象に繋がるのか!!」と。
そうやって知識が生き生きとし始めて、その時強く、
「知識というものを沢山持っていなければ何も見えては来ないのだなぁ」と思ったのだ。
だから個人的には知識偏重しろとまでは言わないけれど、
授業というものを通して知識をしっかりと身に着けさせること、
というか知識と良い出会いの場を提供し
かつその知識が今後うまく使うべきときに使いこなせるような味付けをしておいてあげること、もまた大事なことなのではないかなぁと思っている。
それがもはや「知識や学問はハリボテで本当はこういう能力をつけさせるための授業だー!」というのは如何なものか。読み違いかもしれないが。
でも確かに
「私の授業を受けたら『子どもは何ができるようになるか』」
という視点も大事なんだろうというのは思うし、自分の授業がそこまで考えられているかって言われると全く素直に頷くことはできない。
自分なりの授業の形を模索していくしかないんだろうなぁ…
やりきった感がすごい
初めてのチームティーチングをやってきました!
倫理と生物のコラボという謎のチームティーチング。
木曜日に偶然の連鎖によって持ち上がりあれよあれよという間にやることになったチームティーチングでしたが、良い経験になりました。
今回のことでそもそもチームティーチングを経験するという良い機会になったし、
同時にチームティーチングする意義とはなにか?
そもそも普段の授業とはどうあるべきものなのか?など、
自分の中ではたくさんのことを考えるきっかけになった、
当たり前だと思って蔑ろにしていた部分を改めて問い直す機会になったなぁと思います。
まずそもそもとして、やることが確定したとき、
「何のためにチームティーチングをするのだろう」ということを深く考えました。
元々倫理において生物学の考えが必要な検討事項が出てくる、
でもそれが真実かただの思いこみなのかを倫理の先生だけでは検討できず解説がなされないままうやむやで終わっている現状がある、
だからそこを事実か誤認かを追求するため、同時にその結果によって倫理のメインストリームで主張する内容を強化するために生物学が必要とされました。
しかしただ解説するぞという安穏な気持ちでいいのか?
チームティーチングってなんのためにあるんだ?
当たり前に生徒の理解を深めるため、でもあるし、
生徒の知識として倫理にも生物にもプラスになるようにするため、
倫理の中の知識、および生物の中の知識がその学術範囲内だけで完結するものではなく、世界のどんな場所でも通用するものだと気づいて貰うため、
自分が知っている知識が思わぬところで武器として使えることを知ってもらうため…。
これらの目的を満たすためにチームティーチングという授業が組まれるべきであって、
もし自分が介入することになって元の授業よりもクオリティが低くなったり理解度が低くなるのであればチームティーチングはすべきでない。
ちゃんと価値が創出できるような授業であらねばならない、ということを強く感じました。
上の全てを満たせるようなものを目指して授業を組めるように、とプリントやスライド、解説の流れも試行錯誤して作りました。
授業時間内に綺麗にまとまるようにするにはどうしたらよいか?
ただの解説型がいいのか、アクティビティー型がいいのか?とられる時間は如何ほどか?
どこまで解説や準備をしておけばスムーズなアクティビティーに繋がるか?
生徒の中でわかったという実感が生まれる解説の深さやアクティビティー量はどれほどか?
生物が倫理メインの授業においてメインストリームを失わずに占有して良い時間はどれほどの長さか?また、メインストリームに意識をちゃんと残したまま生物学的理由の検討を行うようにするにはどのように話して授業進行していけばよいか?
そもそもこのアクティビティーに取り組むときの大前提、大目標を何として掲げようか?
などなど…
何度も何度もシュミレーションして、実際に自分の手を動かして何パターンも考えて、
最適なものを生み出せるようにとかなりの心血を注ぎました。
結果としては、今の自分の最大限ができたのではないかなと思う反面、
まだまだ改善の余地がたっぷり残るチームティーチングだったなぁと思います。
まず第一に準備時間が短く全然打ち合わせができなかったので、向こう側の導入や運びをほとんど流れ程度の打ち合わせしかできませんでした。
そのため重複部分が出てしまい流れとして少し不格好な部分が出てしまったかなという気がします。
やはりチームティーチングであるからには、チームとして統率がしっかりとれていなければいけません。
行き当たりばったりではなく事前の打ち合わせを綿密に行ってやれると良かったなと一つ思います。今回は時間がなかったので仕方ないことでもありますが、良い勉強になりました。
また、より一層の探究心や疑問に繋がるような発展性の余地を残せたかと言われると微妙です。私が考えた最も浅い部分で完結してしまった気がします。
本当は完結しないんだよ、もっと奥に進める扉がここにあるんだよ、ということをどことなくでも伝えられる授業にできたら良かったです。
他にも時間配分への悔いや、生徒のアクティビティーをどう活かすかなどなど、まだまだ余地だらけ…
ですが、授業を見に来てくださった先生方や生徒は面白かったと好評で、
新たな視点が得られたとか、
そう繋がるんだと思ったとか、
自分の力でも深く検討できる、研究できるんだと思ったとか、
そんな感想を頂きました。
温かい目で見守っていただけて幸せです。
自分の普段の授業も、なんだか慣れてきて目先の楽さやただの繰り返しになってしまっている面が無きにしもあらずでしたが
それではいけないなということを今回感じさせられました。
一個一個の授業は常に生徒のためにあるのであり、
生徒の理解を深めるため、
生徒の疑問を深めるため、
生徒の興味を深めるため、
そして他の教科や世界との繋がりを感じられるものであるのが好ましいものなのです。
どのような授業形態をとるべきか?講義か?ディスカッションか?アクティビティーか?演示か?実験か?生徒主体発表か?実物か?
どのような導入をどこまで与えるべきか?
どこから考えさせるべきか?
どのような発問をすべきか?
どのような情報まで見せるか?
どのような活用まで気付かせるか?
どの本旨は見失わせないように肉付けするか、すなわち最も伝えたい主軸はなにか??
こういったことを常に考えながら、一個一個の授業は構成されるべきもの。
そのことを意識して、今後も授業改善に努めたいと思いますし
一層「自分の授業で何を可能にしたいか」を考えながら、色々な可能性にチャレンジしていきたいと思います。
ということで、初チームティーチング終わり!
そして試験前の授業も今日で終わり、
非常にハードな毎日も一旦終焉です。
毎日毎日5連続だの6連続だのぎちぎち詰まった日程からの出張だのと、
本当に辛いスケジュールばかり続いてきて、
自分の感覚では「なんとかなるだろう」という感じだったのですが実際やってみるとどんどん疲れが蓄積し、
精神的に摩耗していくのを身をもって体感しました。
もう本当に辛くなりました…
一個一個の授業を大事にするどころか、どこか消化試合のように気持ちが入り切らなくなるし
毎日学校に行くのが億劫になるのに気持ちがそぞろなまま一日が消費されていく。
次はなんだ、次はなんだと今よりも次ばっかりが気になって何も手につかない状態になるし、
そんな気持ちの使い方をしているせいで精神が麻痺して何も考えられなくなる。
舌もどんどん回らなくなり
自分がどんな言い回しをしているのかわからなくなり
挙げ句授業の構成が雑になり
生徒が質問に来ると今までは楽しく受けれていたのに、どこかで苦しさを感じるようになっていて…
何よりも自分を労る方法が全くわからなくなる、というのが辛いところでした。
家に帰って「よくがんばったな」と思っても何かしたいという気力が沸かないのです。
美味しいものを食べようとか、美味しい珈琲を飲もうとか、
そういう欲求すら沸かないで明日を案じるばかり。
楽しいことも楽しいと感じられず疲れを感じたり…
それらがとても辛く感じました。
それが最大値に達した今日見たツイートがこれ。
ちょっと前に、大ベテランでとても力ある教員が「毎日あくせく忙しいと授業で根源的な問いを問えなくなる」と仰ったのよね。これはほんとその通りだと思った。くっそ忙しいと、つい、授業をなんとか乗り切る、流すことが目的化してしまう。何のために授業しているかがおざなりになる。教員も生徒も。
— MER (@MathEdr) November 26, 2018
深く共感する内容でした。
なんでもそうなのですが、やっぱり一番大事なのって、
心の余裕だと思います。
心に余裕があれば、精神的に豊かであれば、色んなことを考え、やってみようと試し、一層勉強し、ってことができる。所謂脇目をたくさんふれる状態だと思うんです。
でも余裕がなければ、いっぱいいっぱいで、何かに気づくことすらできない。脇目がふれないんですよね。
今回非常に険しい日程を過ごしたことで、これを強く体感したなぁと感じると同時に、
余裕は大事にしたいなぁと思いました。
自分の心の余裕の作り方を、学んでいかなければ生きていかれませんね。
なんだか今までのこの忙しかった期間、本当に無駄にしてしまった時間だったなと後悔ばかり感じるので、
これ以上人生を無駄にしないように、楽しいことを楽しくやっていけるように生きる術を身に着けたいです。
で、今は元気になってきました。
終わったから開放感があるんだろうなぁ。
頭がすっきりして、あれもやりたい、これも工夫したい、こういう内容も盛り込みたい、もっと勉強したいという気持ちでいっぱい!
うんうん、これが本来の自分だぞ。
つまんない人間にならないように、余裕を大事にしていこう。
P.S.
種が食べたいなーって思ってたら
ある人からマクロビ派ビスケットをもらった。わーい!

なんなら甘栗も食べたい。焼き芋も。食べなきゃ…!!
ハード&ハード と新たな挑戦
ここ最近異常なくらいハードな毎日を送っている私。
授業のコマ数が5連続が当然のようになってきた。むしろ今までどうやって過ごしてきたのはわからないレベルでずーっと授業している気がする。自席に全然座っていない。
空きコマも試験刷ったりなんやかんやと行動してたら終わってしまう。
そんな日々がずっと続いている。
今週はハードすぎてハードじゃないはずの息抜きの日もハードにしてしまうくらい感覚が狂っていた(自業自得という)。
月曜5連続、火曜4連続からの出張、水曜6連続というハードさだった。
特に火曜は倫理のベテラン歳上先生に突如授業見学を申し込まれてしまった。
「生徒に『見る価値のある授業ってどれかな?』って聞いたら先生の名前が出たから見せて!(ニコッ」とのことである。
生徒にそのように推して貰えるのは非常に光栄ではあるけれども、降って湧いたような災難であることもまた確かで…
断ることもできないので一生懸命準備してやった。
個人的にはまだまだ微妙な授業だったので、恐る恐る先生のところに伺うと「完璧!」との一言で片付けられてしまった。
新人補正が入っての評価であることは分かっているけども、できれば辛口で改善点を教えてほしかったな、というのもある…
という気持ちも相まって
木曜2コマしかないという安息を得たにも関わらず、
「助言が得られないなら自分から学びに行っちゃえ!」という勢いで何故か1限に倫理、3限に物理の授業見学を予約してしまった。
で、倫理の授業を見に行ったら、何故かその場の無茶振りで遺伝に関する解説をする羽目になった。
なんとなくチームティーチングっぽいな?これは良いのでは?という雰囲気になり、
授業後倫理の先生に直々に「今度ちゃんとチームティーチングやろう!火曜日!!」という大案件の提案を頂いてしまったのだ・・・
こんな新人の陳腐な授業で大丈夫なのか?
でもいやいやこんな話来るのそうそう無いし非常に光栄だし、なんなら一回くらい転けてもいいからやってみるべきじゃないか??
と、これまた勢いで引き受けてしまうことになったのである。
おかげでこの三連休はそれに頭がとられて仕方なかった。
何事も経験なので、楽しんでやりたいところ。
最近頑張っているのも 後押しして美味しいものばかり食べている感じがある。
まずは牛肉。ふるさと納税の戦利品。

そして以前の記事でも紹介したように、モッツアレラチーズが安かったのでピザ風トーストを焼いてみたり。

ひじき煮を食べたくなって大量に作りすぎたので、これまたひじきトーストにしてみたり。
納豆トーストにしてもそうだけども、和食とトーストは何故かよく合うのである。
というか、毎朝シリアルだったのに最近ずっとトーストだ。大丈夫なんだろうか。

そしてこの三連休は更に美味しいものばかり食べたり買ったりしてしまった。
金曜日はインドカレーを食べに行き、すこぶる美味しいポークカレーを頂いた。
夕飯にはチョレギサラダなるものに初挑戦し、
「これはうまいぞ!?」となった。新分野開拓である。
土曜夜は本当に久々にお酒を、
しかも初めて日本酒をちゃんと飲むためにお店に行った。
カウンター席で飲む日本酒と、それに合うお料理の品々は最高に美味しかった。
日曜日の今日はお昼にずっと気になっていたあん食パンを食べ、
「あん食パンって美味しいんだ!!」と感動している。
夜は昨日買った胡麻鍋のつゆでお鍋。

これがまたすごーく美味しい。
作ってる時からお出汁の良い香りが堪らない。
〆辣油を垂らして中華麺で担々麺風に…
いつのまにか自然派ラーメンの出来上がり。最高!!
明日からはまた地獄なんだけど、幸せな休日だった。
幸せ過ぎて最高な休日。
生きるためには活力が必要だ。
休日満喫した分明日から頑張っていくぞ。
ミニトマトまつり
ミニトマトを職場の方からたっぷり頂きまして…

ありがたやありがたや…!!
ぷっくり新鮮なミニトマトですが、如何せん自分はあまり生でミニトマトを食べない。
ので、せっかくだからということで(贅沢ですが)色々な料理に使ってみています。
ひとつめに作ったのはミニトマトのトマト煮。

豚肉とにんじんと大豆を入れてみました。
ミニトマトの果肉がとても美味しい!
今夜作ったのはミニトマトのボロネーゼ。

これもまたミニトマトの果肉が美味しい。
まだまだ残っているので今週一週間はミニトマトを使う戦いになりそうです。贅沢です。
追記:
14日の夕飯はピリ辛トマトソースのパスタにしてみた。

15日の夕飯はリゾットに。

がんばった自分におつかれさま
今週一週間はちょっとひどく疲れました。
精神的負荷も大きかったし、実際の身体的負担も大きかったし…
ちょっと疲れすぎて身体に異常も出てしまうほどでした。
ということで(という訳ではないんだけども)
土曜日は大変美味しいおうどん屋さんに行ってきました。
11月まで限定の大穴子天ぷらと一緒にうどんをいただきました。
美味しいお出汁のおうどんです。
温かいおうどんにしました。
一緒に行った相手はざるうどんを頼んでいましたが、ざるうどんは麺が引き締まってておいしかった!
とても大きいし曲がっているので食べるのに苦労しつつ…
ちょっと胃にもたれてしまったらしく夜ご飯が食べられなくなってしまいました。
歳を感じます…。
あと、多分今週の疲れのせいで朝から手が覚束なく、
誕生日に買ってもらったお気に入りのkotoritachiのマグカップにヒビを入れてしまいました。
朝からすごく悲しい気持ちになりました。
しかし、それでマグカップを買い直そうということになり、
とても可愛いマグカップを買ってもらってしまいました。

GET SALMONはずるい。
FUNNY FACE BEARもずるいですよね?



ちょっと変わった形のマグカップですが、元気が出る柄でとても気に入りました。
何よりお揃いになったのもちょっとくすぐったくてほっこりしました。
心から感謝…。
日曜日は、昼にキッシュを作ってパンと一緒に食べました。


パンプキングというパンがとっても美味しくて幸せな気持ちになりました。
夕飯はトマトカレーにしました。
ゆるゆるほっこりできた週末でした。
来週もハードだけどがんばろう…
好きなのに伝えられないのはなぜ
私は生物学のセントラルドグマの項がもうこの上ないほどに好きなんですよ。
そもそも自分が生物学に引っ張られたきっかけがこの単元なわけで。
生物を構成するすべての根幹が、たった一つの法則「相補性」だけに則って進んでるなんて誰が思うでしょうか?
AとT(U)が結合し、GとCが結合する、これだけの決まりでDNAという物質の塩基配列がRNAという物質の塩基配列に変換され、更にはアミノ酸の配列に変換されていくなんてこんな素晴らしいことはないと思います。
なんというシンプルさとなんという応用の広さ。
なんというストイックさとなんというわかりやすさ。
だけどこんなに惚れているのに、うまくこの魅力が伝えられない…
説明しようとすると非常に機械的になってしまい、
(いやそのシステマティックさが魅力なんだけども)
どうしたら感動が生まれるのか、「すごい!!」と思ってもらえるのか、なんだか全然わからないのです。
授業を既に2つのクラスでやりましたが、全く手応えがない。
というか、今までも授業してきてこの単元で一度も手応えを感じたことがない。満足がいかない。
自分が好きなものであればあるほど、
愛があればあるほど、うまく人にその良さを伝えられないのは何故なんでしょうか?
自分のこの表現力のなさに情けなさを感じ、
生徒にこの感動を感じさせられないことを不甲斐なく思います…。
うーん、どうやってもっていったら面白いんだろう。
どうやってもっていったら気付きや感動に変わるんだろう。
授業をするたびに常に悩んでいる気がします。
今日のここはもうちょっとうまくできたなとか、考えてばかりで。
でも中々向上していかない。
この前も、DNA抽出実験の理論について授業して、
授業後沢山の生徒が「家でやってみたい」「どうやったらできますか?」と
割と興味を持ってくれました。
シンプルに綺麗な事実だけ話すよりも、
出てくるのは本当は純粋なDNAではないよとか、
私はかつて髪の毛からDNAを取り出したよとか、
そういうごちゃついた話の方が具体的で生徒は喜ぶし、
やっぱり実物を見たがるものですね。
実物を大事にせよ、と実習で言われたのに未だにカバーしきれていない自分がもどかしい。
来年は忘れないようにDNAの分野で抽出実験の演示を取り入れたいです。
反省をメモして蓄積する習慣をつけたいなぁ…
そうしよう。そうやっていくしかない。
なんやかんや言って、やってみるまで結局どういう説明が良いとか
どういう話の持っていきかたがよいというのがわからなくって、
そこに自分の力量の無さを更に感じます。
生徒は実験台ではないんだけどなぁ…って、
この回しか授業はないわけだから最高の授業を毎回しなければいけないはずなのに、
結局実験台にしてしまっている。
こういうのは本当に良くないです。
でも自分の頭で考えるのにも限界があり、
例えば今の段階で来年度用に生物の教材を改良しよう!と思っても中々うまくいっていないのが現状…
自分の想像力が乏しいんですよね。
はぁ…
部活動指導でも自分の情けなさを感じてばかり。
どうしてうまくやれないのかなぁ。
そんなことを考えながらネットで「良い授業」なんて検索していたら
なんと幻の優秀教材ページ「理科ねっとわーく」が復活していたということを発見しました!!
すごくうれしい!!!
ちょっと教材を漁ってみよう。
「潰しが効く」ってなんなんだろう
今日、授業終わりに一人の生徒がやってきた。
一年生は今文理選択の真っ最中で、もうすぐ決定というところ。
「先生、非常に悩んでいるので相談にのって欲しいんです。
僕は生物を選ぼうと思っていたのですが、担任の先生にその旨を伝えると
『潰しが効かなくなるので物理にした方が良い』と言われました。
僕はどうするべきだと思いますか?
本当に潰しが効かなくなりますか?」
潰しが効く とはなんだろう。
大辞林をひいてみると、こうある。
〔金属製品は溶かして別の製品にすることができることから〕
それまでの職業をやめても、他の職業や他の分野の仕事で十分やっていく能力がある。
私はこの言葉を軽々しく放つことに非常に違和感を持った。
物理を選んで選べる職業と、生物を選んで選べる職業は大きく異なる。
そもそも選択肢自体が違うよ、という言葉なら分かる。
しかし当の本人のやりたいことによってそれら選択肢が「潰し」になるかどうかはまた別問題だと私は思う。
だって生物系のことをやりたいのに、物理方向の「潰し」があることは、その子にとって本当に「潰し」なんだろうか。
実は潰しが皆無になってしまうんじゃないか。
確かに物理の方が「物理」を活かした選択肢は多い。進める道も多い。応用も色々効く面もある。選択肢としては多いので、生物はそれに比べて非常に狭量だ。
「生物」を活かした職業につけるかどうか、というと狭き門だし、職種もまだまだ少ないだろう。工業化が日々進むこの日本では、物理を活かした市場の方が大きい。
だが生物に選択肢がないわけではない。生物を用いた研究職、生体を扱う仕事、微生物の開発・・・これらは物理出身者ではなく生物出身者が重んじられる。だってノウハウがあるからだ。
ついでに言うと物理だろうが生物だろうが、進む分野によって市場の種類は更に変わってしまうし狭さも変わる。物理でソフトをやるか、ロボットをやるか、宇宙をやるか、素粒子をやるか。これらが全て同じなわけがなく、つまりは物理だって進みようによっては所謂「潰しが効かない」ほどに自分の能力を活かせる市場は狭くなる。
そしてぶっちゃけ物理や生物を活かそうなんていう考えを捨ててしまえば選択肢はいくらでもある。どっちをやっていたって変わりない。
そもそも物理や生物を一生使っていこうという呪いなんて必要ないと私は思う。
その時やりたいことをやれるように、選び取れる状況にしておけばなんら問題はなく、何を学んだっていいんだと思う。
文系就職したら自分のアイデンティティは死ぬのか?そんなわけはない。
今まで物理や生物で学んだ思考の方法や世界の見方は常に自分のものとしてそこに存在する。
将来の安定のために「潰し」を考えることは大事だと思うが
ぱっと見の市場の広さ=潰しの可能性 ということにはならないだろうとやはり思うのだ。
ついでにいうと、
じゃあ潰しを効かせましょう、広い市場が在る方にしましょう と物理を選んでみたところで
その物理をまさに「潰しが効く」ほどにモノにできるのかは些か疑問である。
そこまで深められるか?
自分の職業として活かせるほど、売りにできるほど、欲されるほどの能力がつくほど鍛錬できるか?
どんな分野に進んだって、生半可につけた知識は無に等しく、役に立たない。
役に立つほど能力をつけた者が選り抜かれ引き抜かれていくこの世界で、彼らに肩を並べられ「潰し」が多い状態にできるだろうか。
自分が得たモノを「潰し」に活かすレベルまで仕上げるのは簡単じゃないぞと私は思う。
そういう覚悟があって潰しを取りに行くなら良い。そんな覚悟があればどんな分野でだって生きていけるだろう。生物だってなんだって、潰しを作れるほどに勉強すればなんの問題も基本はない。
なんなら潰しを自ら創造するために余分に勉強すれば良い。生物学を専攻しつつソフトの勉強をする、それは普通にできることだ。その勉強だけでどれだけ「潰し」が増えることか。所謂「検定や資格をとれば『潰しが効く』」というところか。
とにかく
簡単に「潰しが効く方を選びなさい」という表面上のアドバイスだけではちょっと違うぞと私は感じずにはいられない。
「自分がやりたいことがやれなくなることがないように選びなさい」なら分かる。
「そもそも潰せるのか?」すら疑問に思わずその「潰しが効く」というアドバイスに従う人にもちょっと不安を感じる。
自分の中の違和感を整理しきれずに相手にしてしまった生徒に申し訳なさを感じる。
そもそも自分が考えていることがどこまで正しいのかも分からないので偉そうなことも言えない。まさに私が「潰しが効く」と簡単に言い放った人と同じように、考えの浅い発言をしているのかもしれない。曲がった考えを持っているのかもしれない。
本当は潰し云々ではなく生物と物理の市場事情をちゃんと伝えた方が良かったのかもしれない。生物は実際狭いわけで、物理はじゃあどう活かせるのかとか。今の自分が抱くこの「生物を活かした潰しは大学院まで行かなきゃできないな、教育くらいしか道がないな」というちょっぴりとした後悔の念とか自分の道のなさに対する不安とか。
そもそも何を軸にするかの時点でだいぶ考えた方が「潰し」が広がる、なんてアドバイスの方が良かったのかもしれない。私も生物が軸じゃなくて、他に好きだったものづくりや、パソコンで色々プログラミングするのとか、そういうのを軸にしてたらもっと潰しが効いただろうなと今は思う。ちょっとさみしくもある。
何を話すべきだったんだろう。
どこまで話すべきだったんだろう。
自分のすべきことがわからなくて、伝えきれなくて、自分情けないな、無力だなって思った。そんな今日。