読むという能力の高度さについて、隣の先生と少し議論して、
面白かったので書き留めておこうと思います。
「進化する脳」という本の中で述べられていたのですが
ヒトの脳の使用部位というのは、身体に合わせて作られてくることがわかっているそうです。
つまり、「読みとる」という能力についても同じで、
使ったり、訓練したりすることによって脳部位が作られるのではないかと思います。(あくまで憶測ですが)
そもそも、書く、読むなど文字を媒介した情報伝達は高度なものではないかと私は思っています。
書かれた文字というのは複雑かつ緻密な法則に則って物事を伝えようとしてきますし、
文字を読むというのは解釈を自分でしながら情報を抜き出す行為に該当するからです。
表情もニュアンスもないので、どこが大切かということや文の中の繋がり・・・そういったものが全て解釈を正確にできない限り分かりません。
一方音声言語は古典的に存在するものですよね。
虫などでも使用する最も単純なものだと私は思います。
ただ、音声言語はアウトラインしか伝わらないし、相手の解釈を受け取る行為がメインとなってきて、自分で解釈する必要性や気張る必要性も少なくなります。
直観的に「わかる」し、意識してなくても大雑把に伝えたいことだけが伝わるようになっているのが音声なのではないでしょうか。
つまり、読むという行為は簡単にみえて、実は非常に高度な技術なのです。
読むはトレーニングしないと本当はできないことなのでしょう。
国語のテストで読み取りが当たり前のように出てくるのはよく考えたらそのせいでは・・・。
トレーニングを積んでこなかった子供は読むのに必要な脳部位が形成されていなかったり未発達だったりして
読むのは非常に困難な作業になるのではないでしょうか。
ですから、私たちは「読む」ができるものとして指導してはいけないのだと思います。
そしてある程度発達している者は、脳部位の可塑性の観点からも、いきなり読めるようには決してならないという意識が教える側に必要なのではないかと。
私達はしばしば、文章は皆読めるものだ、当たり前に読み取れるはずだという指導をしていて間違うことが多いような気がします。
解説を読んでみたらわかるでしょ、教科書読めばわかるでしょ、で分からない生徒、読もうとしない生徒は多くいます。それは、さぼっているものばかりではなく、本当に分からないという者もいるのではないでしょうか。
私たちは、そういった「文章読み取りができない生徒のため」または「文章読み取りを補助するため」に、授業では音声言語として内容を起こす必要があるのだと思います。
今後ICT化が一層進む中で、読む力のトレーニングをする場面は失われる頻度が多くなってくるのではないかと思います。
文字と黒板とにらめっこして想像した時代とは違うので・・・。
動画やイメージ、音声で、私たちの考える物があまり差分なく生徒に手軽に与えられるようになったと同時に、
動画やイメージ、音声には解釈の余地やタイミングがないため、彼ら自身で意味を見出す機会が減ってしまう危険性があるのです。
ICTは非常に便利ですが、そういう危険性を踏まえて授業を作っていく必要があります。
読むことをトレーニングする場面を設け、
教科書や問題解説文から自分の必要な情報を引き出すという作業に時間をかける。
そういうことをしないと、高校教育までは良くても、
大学以降では自分の必要な情報を本や媒体から抜き出すことは困難になっていくのではないでしょうか・・・
(実際私も大学生時代教科書を読めない人は多くいました。論文も読めないのでついていけなくなってしまうのです。)
一人で立てる生徒、
生きる力を持つ生徒を育てるために、
この情勢の中でどうしていくべきか。
しっかり考えていかないといけないなと改めて思いました。
駄文でごめんなさい