✿キメラ胚とは
皆さんは「キメラ」という言葉を知っていますか?
キメラ(chimera)とは、同一個体内に異なる遺伝情報を持つ細胞が混じっている状態や、その状態になっている個体のことを指す言葉です。
身体の細胞が全て同じ遺伝情報を持つのではなく、異なる遺伝情報を持つ細胞が隣り合って一つの身体を構成します。
この言葉は、ギリシア神話にでてくるキマイラ-ライオンの頭・ヤギの胴・ヘビの尾をもつ怪物に由来します。
「キメラ胚」は、胚の段階-つまり受精卵から成体まで発生する過程の段階でキメラになっているものを指します。
昨今、キメラ胚を作る試みは様々な研究分野でなされています。
ラットとマウスのキメラ、ニワトリとウズラのキメラ、そしてブタとヒトのキメラなど……その試みられた組み合わせは多岐に渡ります。
2021年5月15日には、科学雑誌Cellにおいて、「ヒトとサルのキメラ胚を作る研究が行われた」ことも発表されました。
では何故、なんのために私達は「キメラ胚」を作ろうとするのでしょうか?
キメラを作るには、どういった方法がとられているのでしょうか?
今回はそれら疑問に注目し、解説していきたいと思います。
✿キメラ胚の作り方の例
Aの生物をベースにBの生物の細胞が混ざったキメラ胚を作る、その方法の一例を紹介しましょう*1
まず、Aの生物の受精卵を用意します。受精卵は細胞分裂を繰り返し、やがて多数の細胞からなる胚盤胞という時期を迎えます。
この胚盤胞の中には空間があるので、そこにBの生物の幹細胞((幹細胞とは、自己複製能(つまり増殖能力)を持ち、かつ複数種の細胞に分化できる能力を持った細胞を指します。を複数個注入します。
哺乳類の場合、発生過程は子宮内で進行し、体外で進められないので、大抵のキメラ胚はレシピエント側(今回でいうとA)の生物種の子宮に移植されます。
Bの幹細胞を注入された胚はその後、通常の胚発生と同じく細胞分裂・移動・分化という過程を経て一個体の身体を形成していこうとします。
その際たまたまBの細胞を使ってどこかのパーツを作ってくれれば、キメラ胚ができてくることが期待されます(つまりBの細胞が身体のどこを作るのか、何になるのか、そもそも使われるのかはランダムです)。
しかしBの細胞は、Aの細胞と同じ遺伝情報は持っていません。
ということは、Bの細胞があるパーツに使われそうになったのに、適切な遺伝子発現ができない……なんてこともあり得ます。
発生という過程は、適切な時期に適切な遺伝子が発現し、タンパク質が機能していくことがかなり必要とされるものです。
遺伝子発現がなければ、あるパーツができなかったり崩れたりするかもしれませんし、大事な過程が進められないが故に発生しないで死んでしまう(破綻する)ことがほとんどです。
そんなわけで、混ぜる生物種が離れすぎていると中々うまくいきませんし、近縁種でも成功する確率はかなり低いのがキメラ胚の現状です。
上でも述べたように、外部から入れた異種細胞がどこに使われるのか指定できないという難しさもあります(実はこの問題については、うまく回避できるように考えられた策が既にあります。後ほど説明します)。
✿キメラ胚を作るのはなんのため
今まで述べたような困難があっても尚、キメラ胚作出が研究されるのは何故なのでしょうか?
そこには様々な理由があります。
例えば、二種の近縁さを測るため、発生過程を解明するため、身体・脳の各部位の機能解明につなげるため……
そして、「臓器移植の可能性を探るため」。
特に臓器移植とキメラ胚は、大変強く結びついています。
ヒトの臓器移植について、臓器提供が追いついていないという話は一度は聞いたことがあるでしょう。
多くのヒトが助かるためにも、臓器提供のルートは確保したい。
しかし、臓器をヒトから持ってくることはそうそうできません。
臓器を取る専用のクローン人間を作るのも倫理的問題が大きいですし、現段階の技術では体外で一から立体的かつ各種組織が入り混じった臓器を作ることは不可能です。
今の技術では、生命にしか臓器構築を頼れない……そこで注目されたのが「キメラ胚」なのです。
例えばブタは、機能やサイズの面でヒトと臓器がかなり似ています。
ブタは生育も早いし、沢山子が産まれるので増やしやすく、短時間で多量の臓器が手に入ります。
肉も普段から食されているので、無駄なく活用できます。
しかしブタの臓器そのものをもってくると、拒絶反応によって臓器が定着しないでしょう。
ならば、ブタの身体の中で、ヒトの細胞でできた臓器を作れればいいのでは?……こういう考えで、ヒトのキメラ胚は試みられているのです。
もしこの方式で沢山のヒト臓器が手に入れば、薬効試験や研究にも使うことができ、医療はますます発展するでしょう。
キメラ胚を作ると聞くと、残忍な遊びだと捉える人も少なくありません。
が、実際には多くの人々の期待と未来を背負った、真剣な研究なのです。そこを履き違えてはいけません。
✿臓器移植に向けたキメラ胚研究の実情
では、ヒトに臓器移植するためのキメラ胚の研究は、どれくらいの所まで研究が進んでいるのでしょうか?
現在までで行われた、ヒト細胞とのキメラの作出事例で有名なものは2つだと私は考えます。
一つは2017年に行われた、ブタ-ヒトキメラの作出。もう一つが先にも紹介した、2021の年サル-ヒトキメラの作出です。
2017年の研究では、ブタの胚にヒトの多能性幹細胞を注入し、その胚をメスのブタの子宮に移植するという手順がとられました。
ヒトの細胞が3~10個ずつ入った約1,500個の胚が作成・移植され、28日段階まで発達し続けたのは 186個という結果でした。あまり高い成功率ではありません。
その上、注入する多能性幹細胞の状態、胚の発生段階など、キメラ胚を作るには様々な面で厳密さが要求されることがこの研究を通じてわかりました。
また、ヒトの細胞を多く含むほど胚発生が遅れていることも見出されており、中々難しい様子であることがわかります。
そもそもブタとヒトは、臓器は似ていても発生プロセスのスピード感がかなり異なる生物です。
ブタは妊娠期間が4ヶ月しかありません。ヒトと比べて速すぎます。
ブタよりも近縁だろうと思われるサルでなら、もっと上手く行き、かつキメラ胚作出のための知見も得られるのでは?
そのような動機に基づいて行われたのが、2021年のサル-ヒトキメラの作出実験です。
カニクイザルの胚に、ヒトの多能性幹細胞を注入し、培養皿で育てるという形で実験されました。
132個の胚に、約25個ずつヒトの細胞が注入されましたが、10日目で103、15日目で38、19日目で3の胚が生き残りました。
この研究では、胚が発生してもかなりヒトの細胞が残っていたことも報告されており、どの部位をヒト細胞が構成していたのか、細胞の遺伝子発現はどうなっていたのか等も追跡されています。
しかし、ただキメラを作るだけでは、できた臓器が使える可能性は低いと思われます。
何故なら、生物には「拒絶反応」があるからです。
もしヒトの体内に、ヒトとブタの細胞が混じった臓器を移植したら、恐らく拒絶反応が生じ生着はしないでしょう。
これを避けるためには、胚に外部から注入した細胞がランダムに各臓器に入るのではなく、確実に狙った臓器・狙った部位を構成するような仕掛けが必要です。
それを実現できる可能性を示唆する、ラット-マウスキメラを用いた研究が2017年に報告されています。
この研究ではまず、膵臓を作るために必要な遺伝子をゲノム編集技術で欠損したラット受精卵が作出されました。
この受精卵は単独発生させると、発生が途中で止まり死んでしまいます。
この受精卵に、マウスの多能性幹細胞を注入すれば、膵臓がマウス細胞で作られるようになるのではないか?そのように研究者は考えたのです。
実際にできたキメラ胚は胚発生し、膵臓はほとんどマウス由来の細胞でできていたことがわかりました。
この「仕掛け」を上手く使えば、ブタ-ヒトキメラ胚においても、どの組織をヒト細胞が構成するのか決められるかもしれません。
✿キメラ胚を取り巻く倫理の議論
ここまでキメラ胚について研究・目的を紹介してきましたが、恐らく読んでいる皆さんの中には倫理的な違和感・問題点を感じている人もいることでしょう。
実際キメラ胚は非常に曖昧な道徳的立場に存在する生物です。
一部はヒトという研究で扱わざるべきもの、そして一部は動物という研究で扱って良いとされているものになっています。
そのような生物をそもそも作出していいのか?という疑問点もあります。
また、繰り返しになりますがキメラ胚では、外部から入れられた細胞はランダムに組織を構成します。
もしヒト細胞で構成された脳を持つキメラができてきたら、私達はその生物をどう扱うのが正当でしょうか?
ヒトと同じように考え、感じる能力があるとしたら?
キメラの方が感受性・能力がヒトそのものを上回る可能性もあります。その時私達はどうやって、キメラと付き合っていくのでしょうか?
様々な倫理的問題から、ヒトキメラ胚の作出には資金が出なかったり厳格なガイドラインがあったりするのが現状です。
しかし研究が進まなければ、できないことも多くあるでしょう。
貴方はキメラ胚に対し、どう考えますか?
参考:Cell. 2017 Jan 26;168(3):473-486.e15. doi: 10.1016/j.cell.2016.12.036. Interspecies Chimerism with Mammalian Pluripotent Stem Cells. Jun Wu et al.
Cell. 2021 Apr 15;184(8):2020-2032.e14. doi: 10.1016/j.cell.2021.03.020. Chimeric contribution of human extended pluripotent stem cells to monkey embryos ex vivo. Tao Tan et al.